会社概要
京都で木組みの家・注文住宅を建てる。それが私たち株式会社 能見工務店です。熟練の職人が心を込めた施工により厳選した材料に命を吹き込みます。
能見工務店の想い
- 経営理念
- 関わる全ての人に心地よい暮らしの提案を
- ビジョン
- 地域から心頼され必要とされる企業
- ミッション
-
- 安心で快適な暮らしづくり
- 長く住み続けられるふるさとづくり
- 価値を提供できる人づくり
取り組みテーマ
安心で快適な暮らしづくり
具体的な取り組み
自然素材と木をふんだんに使用した健康住宅をご提供しております。
主な取り組み
- BELSの推進、省エネかつ高性能な住宅の提供(ZEH、HEAT20、耐震等級3、劣化対策等級3など)
- 京都産木材の使用を通して森林の循環を促し、環境に配慮した家づくりの提案
- 充実した保証と定期的な無料点検の実施
SDGs目標
- 3.すべての人に健康と福祉を
- 7.エネルギーをみんなにそしてクリーンに
- 11.住み続けられるまちづくりを
- 12.つくる責任つかう責任
- 13.気候変動に具体的な対策を
取り組みテーマ
長く住み続けられるふるさとづくり
具体的な取り組み
みんなが同じものを安心して食べられるカフェと地域交流を促す居心地の良い場所をレンタルスペースとして提供しています。
主な取り組み
- できる限り無添加で減農薬の地元野菜を使用し、安心で安全な食の提供
- 育ち盛りの子どもや一人暮らしの高齢者、若者も気軽に利用できる“みんな食堂”として居場所づくり
- 地域コミュニティーの交流と促進
SDGs目標
- 2.飢餓をゼロに
- 3.すべての人に健康と福祉を
- 5.ジェンダー平等を実現しよう
- 7.エネルギーをみんなにそしてクリーンに
- 11.住み続けられるまちづくりを
- 17.パートナーシップで目標を達成しよう
取り組みテーマ
価値を提供できる人づくり
具体的な取り組み
働きやすい職場づくりと本業を通した情報発信や体験による地域貢献に取り組んでいます。
主な取り組み
- 定期的な面談による社内コミュニティーの円滑化及び子育てしながら働きやすい環境整備
- 職人の育成を通じた次世代への技術継承
- 木工教室や職業体験を通した子どもたちの育成や地域活性の促進
SDGs目標
- 3.すべての人に健康と福祉を
- 4.質の高い教育をみんなに
- 5.ジェンダー平等を実現しよう
- 8.働きがいも経済成長も
- 9.産業と技術革新の基盤をつくろう
- 17.パートナーシップで目標を達成しよう
私たちの取り組み
能見工務店は【関わる全ての人に心地よい暮らしの提案を】を理念に、「地域から心頼(心から頼られる)され必要とされる企業」になることをビジョンに掲げ、本業【家づくり・食づくり・人づくり】を通して地域の活性化や地域貢献に取り組んでいきます。
そのために、安心で快適な暮らしづくり・長く住み続けられるふるさとづくり・価値を提供できる人づくりの3つのミッションを掲げています。
安心で快適な暮らしづくり
自然素材と木をふんだんに使用した健康住宅をご提供しています。
具体的な取り組み
全棟長期優良住宅やBELSの推進、省エネかつ高性能な住宅の提供(ZEH、HEAT20、耐震等級3、劣化対策等級3など)で安心安全な暮らしに貢献するとともに、高気密高断熱住宅でヒートショックなどの健康被害、自然素材や木でシックハウス対策を軽減し健康で長く住み続けられる住まいを提供してます。
そして、京都産木材の使用を通して森林の循環を促し、環境に配慮した家づくりの提案しています。
また、充実した保証(瑕疵担保責任保険10年保証、シロアリ10年保証、地盤20年保証)と定期的な無料点検を実施(お断りされるまで)し手入れをして長く使うというストック活用型社会へ取り組んでいます。
長く住み続けられるふるさとづくり
みんなが同じものを安心して食べられるカフェと地域交流を促す居心地の良い場所をレンタルスペースとして提供しています。
具体的な取り組み
“食に悩む人もそうでない人もみんなが集い同じものを食べられる店”をコンセプトにできる限り無添加で減農薬の地元野菜を使用し、地産地消に取り組みながら安心で安全な食を提供しています。
そして、このカフェをHEAT20のG2仕様、uA値0.39w/(㎡k) C値0.4で、また熱交換換気システムを導入した高気密高断熱の省エネ住宅で建築することでエネルギー削減を促進し、地球温暖化対策へ貢献しています。また屋根に太陽光発電を設置し自然エネルギーにも取り組んでいます。
また、二階のレンタルスペースを地域や地域諸団体の方に開放し様々なワークショップやイベントなどを開催して頂き、居場所づくりや地域コミュニティーの交流を促します。
価値を提供できる人づくり
働きやすい職場づくりと本業を通した情報発信や体験による地域貢献に取り組んでいます。
具体的な取り組み
社内で、定期的な面談による従業員の心のケアと社内コミュニティーの円滑化を図り、従業員一人ひとりがイキイキと働ける職場づくりに取り組んでいます。そして、介護休暇・育児休暇・子どもの長期休暇時などの在宅ワークや短時間勤務制度を導入し、介護や子育てをしながらでも働きやすい環境を整備しています。
職人の育成に関しては、特に大工不足が叫ばれる建築業界において弟子の育成による伝統技術を後世に継承しています。また、近年のSNSの普及を利用し動画配信による間接的な伝統技術の継承にも取り組んでいます。今後も、動画を通して、ものづくりの難しさや楽しさ、職人技術の発信をしていきます。
地域に関しては、お子様に本物の自然素材や家をつくる際に出た端材に触れて頂く木工作品づくりの機会を通して、京都で育った木や自然素材の素晴らしさを伝えています。
そして、カフェではまだ働いたことのないお子様たちに働くことの厳しさや楽しさ、働くことの意義を学んでもらうために職業体験の機会を提供していきます。
代表ご挨拶
能見工務店の家を一言でいうと【自然素材を使った木の家】。そこに行きつくのにはこんな物語がありました。
見た目だけ綺麗な仕事ではなく、もっと良い提案をして“こだわった家”をつくりたい!!長持ちする家をつくりたい!!そんな一心で能見工務店を創業しました。
そんなある日、一人のお客様からこんな質問を受けました。
「能見さん、いい材料でこだわった家を建てればお寺みたいに長持ちしますよね?」
「確かにいい状態で乾燥させた木や良い素材を使うと、長持ちするのですがそれだけで長持ちするかって言われたら正直わかりません」と答えながら“ハッ”としました。
恥ずかしながら“長持ちする家づくり”をしますと言いながら、“長持ちする家”とはどうやってつくったらいいのかを真剣に考えたことがなかったのです。
考えに考え悩み抜いた結果、“愛着”というとても単純なことにいきつきました。そのもの自体に愛着や愛情がなければ、大切にしないですよね。定期的に手入れしないですよね。ただ、能見工務店が考えた“愛着”は少し違いました。それは、“住む人とそれをつくる人にとって【想い入れのある家】にすること、つまりその家を大切にしたい”という気持ちが双方になければ長持ちする家は出来ないということでした。だからこそこちらがお願いして、建てた家に毎年点検に行かせていただいているのです。
そして、月日が流れて私には娘ができました。二女が産まれながらにアトピーとアレルギーがとてもきつく“米・小麦・乳・卵・・・”とありとあらゆるものが食べられませんでした。
アトピーやアレルギーなどは体に吸収する食品の影響が特に大きく、自然素材の家に住むだけでは治ることはありません。ただ、家にいる時間の長い子どもたちのために少しでも良い空気環境をつくってあげたいと考えました。
そして、自然素材の成分を気にするようになり調べていくと、自然素材と表記されていても実際には、化学物質が多量に使用されているものがとてもたくさんあることを知りました。
そんな経験から、出来る限り化学物質が含まれていない素材や材料を吟味し、木の良さを最大限に引き出すために塗料を塗らず素材をそのまま使う【自然素材を使った木の家】を建てるようになりました。
私たちが経験したことをもとに、関わる全ての人に心地よい暮らしの提案をしたい。そんな気持ちで正直な施工と提案で妥協しない家づくりにこれからも邁進してまいります。
株式会社 能見工務店
代表取締役 能見 太郎
創業者ヒストリー
昭和52年4月24日に3つ歳の離れた姉と妹にはさまれた
能見家の長男として生を受けました。
これまで、幼少期の話は自分の中にトラウマがあり誰にも話してこなかったのですが少しだけお話ししたいと思います。
父は外科医で母は専業主婦。
小さい時から、「太郎君はもちろん医者になるんやろ~」と周りから当たり前のように言われてきたこともあり、医者になるものとして育ちました。
小学校4年生から塾に行かせて貰い、すごく教育にお金を使って貰った幼少期を過ごしました。
5人家族の長男として生まれる
01.周りからの大きな期待が重荷に・・・・
そして、中学生になった頃「自分は何でこんな勉強ばかりしないとあかんのやろう?本当に医者になりたいのやろうか?」と考える様になったのですが、周りの期待とは裏腹な気持ちを言い出せるわけもなく、自分に言い聞かせながら日々を過ごしていました。
時は流れ高校生になり、一年程は騙しだまし勉強をしているふりをしながら過ごしていたため、次第に授業内容にもついていけなくなりました。そして、我慢していた気持ちが爆発。周りの期待を裏切る形で高校を中退してしまいました。
高校を中退してからというもの特に何をやりたいこともなく、アルバイトをしたりバンドを組んでライブをしたりという日々に明け暮れていました。その時の一つのバイト先で、大手ビール工場のガードマンをしていた時に、トラックの運転手さんに「兄ちゃん、もっと金の良い仕事紹介したるわ」と解体屋さんの仕事を紹介して貰いました。
02.大工との出会い・・・・
当時19歳、1995年の阪神淡路大震災から1年半程経ち復興はだいぶ進んでいましたが、まだまだ兵庫県に沢山現場がある時でした。毎朝6時集合で、京都から大阪の解体会社に通うのに電車通勤で、いつも5時17分の始発に乗って行かなければ間に合いませんでした。今から思うと毎日よく頑張ったなと我ながら感心します。何度か寝過ごして気付いたら明石まで行ってた事もありましたが、、、、
ちょうど一年ほど経った時に、工務店さんに指名を頂いて解体要員として一か月ほど専属でいくことになりました。初めは何も考えずなんとなく仕事をしていたのですが、物を壊すのが仕事だったこれまでと違い、何もない所が部屋になっていく素晴らしさやそこに置いておけば単なる木なのに、大工さんが触るとそれが柱になり天井ができ壁になっていく。正直感動しました。
医者になるという選択肢しかなかった挫折した自分の人生。今思えばこの時初めて自分の人生に、自分がやりたいと思う選択肢ができた瞬間だったのかもしれません。大工さんの手元(お手伝い)で行かせてもらった工務店にも相談したのですが、「京都に住んでいるなら京都で大工の見習いをする方がいい」とアドバイスをもらって京都で大工見習をすることに決めました。
03.親方との出会い
色んな縁を頂いて橋元棟梁の元で大工の見習をさせてもらえる機会を頂きました。初めての現場は、下屋根を壊して部屋にする増築工事の現場でした。
見習い二日目のこと、まだ床が張られていなかった二階の床から足を踏み外し一階の和室の天井を踏み破ってしまうという失態を犯しました。私に大きなけがもなく親方は特に怒ることもなく黙って一階の天井を張り直してくれました。これをきっかけに、こんな素敵な親方のためにも早く仕事を覚えて楽をさせてあげようという気持ちが湧きたったのを今でも忘れません。
04.修業時代
早く仕事を覚えたい、早く一人前になりたい。そんな気持ちが人一倍強かったと思います。その時代はインターネットもそこまで普及しておらず、今の様なインスタやYouTubeの様なSNSも無かったので、建築の本をたくさん買って知識を詰め込んでいきました。リフォームなんかで田舎立ちの立派な家に行った時は、必ず骨組みを見に屋根裏に上がらせてもらっていました。
また、私が25歳くらいの頃に東本願寺の御影堂が平成の大修復をする前に屋根裏見学できるというイベントがありました。ただし、行ける人は抽選で決まるということでした。絶対に行きたかった私は、ハガキに赤字で申込内容を記載してから事務局に「赤字で書いてあるハガキを必ず選んでください」としつこく何回も何回もお願いの電話をしていました。
その甲斐もあってか見事抽選が当たり見学に行くことができました。わかってはいたつもりでしたが、今まで見てきた骨組みとは比べ物にならないスケールでした。梁の大きさ、長さ、何重にも重なりあう梁、屋根の重みに耐えられなくてへしゃげている梁。この複雑に組み合わさった木組みがあるからこそ何百年もしっかり建っているというのを初めて目の当たりにしました。私は家の中で特にこだわるのが骨組みで、これだけプレカットが普及した中でも手刻みで家を建てたり市場に梁を買いに行ったりするのは、この時身をもって感じた体験や経験が影響しているとこれを書きながら改めて思いました。
しかし、私が働きだして3年ほどしてから業界は激変しました。墨付け刻みはプレカットに変わり、大工が骨組みをつくることがなくなっていったのです。幸いうちの親方が仕事を貰っていた工務店は少し遅れていて、プレカットへ移行するのがだいぶ後だったこともあり、自分的には沢山墨付けと刻みを経験させていただけたので良かったです。
私には、橋元親方と別に師匠がいました。見習いの当時は、今の様なSNSの動画もなかったので基本的には本を読んで仕口や継手なんかを見て実践して練習していました。でも本だと実際にはどうなっているとか細かい寸法などわからないことが沢山ありました。
そんな困った時にいつもアドバイスをくれたり教えてくれたりしたのが畠田棟梁でした。今でも納まりに悩んだときには相談に乗って貰っています。こんな風に懐の深い親方と何を聞いても何でも教えてくれる師匠に囲まれて大工の一人前になっていきました。
05.一人前で独り立ち
大工には7年修行して3年御礼奉公して独り立ちしていくという習わしがあります。私も約10年たち親方のもとを飛び立ち、年齢30歳にしてようやく一人前の大工として仕事をしていました。
元々、一人旅が好きだったこともあり那須高原や千葉県の方で仕事があれば、そちらに出向き家を建てに行ったりしていました。そんな時に、大工見習時代に仕事を覚えるために諦めたワーキングホリデーの年齢制限が25歳から30歳に変わったという話を友達から聞きました。それを聞いてから居ても立ってもいられなくて、すぐにワーキングホリデーでオーストラリアに行くことを決めました。実はその時に付き合っていた彼女がいたのですが、そんなことお構いなし。しかし、後にその彼女と結婚することになるのですが、、、、、。
06.ワーキングホリデー
今と違いSNSで情報を集めることがほとんどできない時代でした。“地球の歩き方“という本の英語で書かれている本を買って翻訳しながら宿を探したり、町の情報を得たりしました。ちなみに、英語で書かれている本(外人が読む本)を選んだのは、日本語で書かれている本は、安全な情報だけしか載っていないという話しを聞いたからでした。
後にこの英語で翻訳して調べたり英語で電話して問い合わせしたり、次に行く街の宿に予約したりするという大変な体験が独立する時の勇気や自信に大きく繋がる経験になるのでした。
このワーキングホリデーは、本当にたくさんの出合いと色んな経験ができたとても人生で貴重な時間でした。30歳を超えて人生で初めて飲食店でのアルバイト。ハンバーガーショップでレジのボタンが中々覚えられなくて苦労したことも今ではいい思い出です。
ハンバーガーショップで働く様子
07.創業
いつか必ず自分で工務店をつくる。そう大工修行時代から決めていました。予算に縛られた範囲でしかできない現場、一人前になって独立してからも決められた仕様でしかお客様に提供できない家。畠田師匠が良く「家を建てる時に、我々大工がもらう金額はたかがしれている。でもお客様は何千万という大きな金額を払い、ましては35年間も住宅ローンを払っていくんや。それを考えて仕事をしていかなアカン!!」と言っていました。
約1年ちょっとオーストラリアに滞在し数か国を廻りながら私は「この1年半は何をするもの英語で調べて、英語で問い合わせてしてきた。これからは日本語で全部聞けるし調べられる。じゃあ何でもできるわ。」そんな自信満々に帰国し、仕事の当てもなく能見工務店を創業しました。
何でもできる自信だけはあったのですが、現実はそんなに甘いものではなく半年間はほとんど仕事もなく、知り合いの現場に応援(手伝い)に行ったりチラシをまいたり不動産屋さんに営業に行ったりしていました。チラシも全く反響がなく本当に仕事はありませんでした。「何か仕事ありませんか?」と不動産屋さんに行っても何処もすでに取引先があり相手にしてくれない日々で、心が折れそうになりながら営業をしている友達にやり方を相談したりしていました。
そんな時に、たまたま営業に行った先で「ちょうど取引先が年配の人で新しい業者を探していた」ということで私の話を聞いてくれる不動産屋さんがありました。主に賃貸の改修工事が多いとのことでしたが、その1週間後に頂いた仕事は波板の張替えだったのですが嬉しくてうれしくて今でも忘れません。そこからほかの不動産屋さんも紹介して頂き、形はどうあれ工務店として仕事を始めることが出来ました。
08.自宅建築
売り上げも毎年順調に上がりそこから3年が過ぎました。仕事がなかった時のことを思うと雲泥の差なのですが、人とは欲深きものでこれでは満足できなくなってきました。
「そもそも自分は何のために工務店を創業したのか、、、、もっとお客様へサービスを提供したい!!もっと良いものを提供したい!!」賃貸の改修だけでは満足できなくなった私は、どうしたら新築を受注できるのかを考えました。これまでにたくさん家は建ててきました。ただ、自分が受注して家を建てたことがないとその人に家を建ててとは頼まない。「じゃあ自分の家を建てよう!!」と準備を始めました。
調べていくと一定以上の規模の工事を請け負うには建築業の許可を受けなければならない。そして、建築業の許可を受けるには二級施工管理技士の資格が必要という事でした。これは、工務店をやるうえで必要だという事で慌てて資格を取りに行き翌年、無事に建築業の許可を取得しました。
そして、自宅を建築するのですが自分の理想としていた伝統工法で木と紙と土(アルミサッシなどは使いました)だけの自然素材だけでつくりました。勿論このやり方では、費用も建築期間がたくさんかかるので少しずつ改良を加えていき現在の弊社の“木心”“木楽”の商品になっていきました。
09.子どもたちのアレルギー
ワーキングホリデーに行く時に、ほったらかしていった彼女と縁あって結婚し、3人の娘を授かることができました。家の建築と同時に長女が生まれ、3つ離れて次女、また3つ離れて三女が生まれました。次女と三女は食品アレルギーとアトピー性皮膚炎がひどくとても大変でした。
背中やひざの裏をかゆがり自分でかくと血だらけになるので、一晩中さすって寝かせていました。ただ私がしていたのは子育てのほんの一部、やはり奥さんが一番大変で、食べ物や塗り薬に何を使うといいのかをトコトンまで調べて研究していました。
このことがあるまでは、家づくりに従事していた私からすると新建材を使用せず自然素材で家を建てることで家の空気環境は良くなり健康住宅ができるという事をうたっていました。だから、うちの家は自然素材のみで家を建てました。そして、何年かして次女と三女の2人ともほぼアトピー性皮膚炎は治りました。
今でもよく「自然素材を使うとアトピーが治る」など言いますが、これは私の経験上全くのウソです。自然素材を使い家の中の空気環境を良くしてやることは勿論いいことだと思います。でもそんなことでは絶対に治りません。では、能見家はどうしてアトピー性皮膚炎が2人とも治ったのか。それは母親の“愛”でした。
10.無知は罪
食べ物でも化学調味料無添加と言われていると安心なのかというと実はそうでもない。例えば、人工的につくられた調味料なども添加物ではなく食品に分類されると化学調味料不使用という扱いにできます。家も同じで最近よく使われている左官塗り壁仕上げの漆喰や珪藻土。
これも自然素材だけで作られている材料もあれば、作業性や価格重視して合成樹脂の添加されている材料もあります。ここで詳しくは説明しませんが、合成樹脂の添加されている材料と自然素材だけで作られた材料を比較すると性能に大きな違いが出ますが、実際に成分が含まれているので同じ自然素材の漆喰、珪藻土として紹介されている住宅会社さんも多いと思います。子供たちのアレルギーやこのような名ばかりの無添加食品や自然素材が当たり前のように自然素材のように扱われている現状を改善すべく弊社で取り扱う商品の素材を見直すきっかけになっていきました。
変わらぬ家づくりへの想い
時代が変わり住宅へ求められるものは変われど、家を取得する目的はいつの時代も変わりません。
家を取得する目的は、“今より幸せになるため。家族と幸せに過ごすため!!”
家を建てることはあくまで手段でしかない。そんな中私たちが想う工務店の役目は
関わる全ての人に心地よい暮らしの提案を!!であり、これからもこの想いは変わりません。そこに住まうご家族が幸せであり続けられる、そんな家づくりを使命だと肝に銘じています。
会社概要
- 商号
- 株式会社 能見工務店
- 代表者
- 能見 太郎
- 住所
-
- 営業所/〒610-1126 京都市西京区大原野上里男鹿町1-5
- 作業場(兼営業所)/〒617-0813 京都府長岡京市井ノ内頭本15-8
- TEL
- 営業所/075-963-6208
- info@noumi-k.com
- 事業エリア
- 京都府下中心(長岡京市・向日市・大山崎・京都市)・大阪府一部
- 加入団体
-
- NPO法人京都くらし方研究会 理事
- 公益社団法人全日本不動産協会
- 一般社団法人全建総連リフォーム協会
- 日本気密測定推進協会
- 許可・登録
-
- 建築工事業 京都府知事 許可(般-1)第40305号
- 宅地建物取引業 京都府知事(1)第14252号
- 2級建築施工管理技士
- 緑の事業体登録証 H22-MJ-22
- 耐震設計施工技術者 認定No.20905438
- 事業内容
-
- 新築注文住宅
- 住宅リフォーム
- 制作家具
- 飲食事業
- 営業時間
- 9:00~19:00
- 定休日
- 日曜日・祝日
- 取引銀行
- 京都銀行・京都中央信用金庫・滋賀銀行
ZEH普及目標と実績
- 2025年度
- 目標
- 50%
- 2023年度
- ZEH実績
- 100%
- 2022年度
- ZEH実績
- 34%
- 2021年度
- ZEH実績
- 0%
- 2020年度
- ZEH実績
- 0%